2018/04/08

色のない世界と色のある世界を行き来した画家ルドン

Eテレの日曜美術館は、新年度第1回目。ルドンが取り上げられていました。
そんなこともありつつ。
先日、ルドンの展覧会に行ったメモです。

​印象に残った作品が3点ありました。

1点目は、「兜をかぶった横顔」



ルドンは、木炭画を含む素描がフランスでは好まれないことを残念がりました。
ものすごく細かく書き込まれていて、みごとだ。という感想につきます。

2点目は、「若き日の仏陀」

ルドンは、植物学者クラヴォーと交流がありました。そのクラヴォーから影響されたと考えられる作品です。

クラヴォーは、東洋の文化に興味を持っていました。そのため、ルドンもブッダのような東洋のモチーフに興味を持つことになったのです。

ルドンの作品のなかで、ほかの作品とは雰囲気が異なっており、目を引きました。土田麦僊が所蔵していた、というエピソードも印象的。

3点目は、「ドムシー男爵夫人の肖像」

黒の服、赤のインナー、余白の青と白。
実物を見ると、そのコントラストが作るイメージが素晴らしい。圧倒されました。

ルドンはドムシー男爵から、邸宅の大広間を飾るという大きな仕事を任されたわけです。この絵は、スポンサーに対する恩返しみたいな作品になります。

そういう経緯で描かれたものです。それだからこそなのかもしれませんが、手抜きをした感じが全然ありませんでした。そのことも印象に残りました。

芸術におけるモデルの立場を考えるきっかけ

アラーキーこと写真家の荒木経惟氏のモデルをしていたKaoRi氏が、告白をしました。ヌード撮影の時は、部外者が立ち会うことを望んでいないのに、部外者を入れて撮影されたりした。そういう数々の望まない撮影で、死んでしまおうと考えるほど、精神的負担を受けたというのです。

このKaoRi氏の告白の中でも触れられていますが、現在ニューヨークで開かれている展覧会では、
男性写真家、それも有名な写真家である場合、女性の身体を使った芸術行為への合意形成における力関係を操ることができる、と問題提起している。
とのことです。(引用元)

私もアラーキーの写真展を見に行ったことがあります。でも、その時は、「女性モデルの意思がねじ曲げられて撮られている」なんてことは、考えてもみませんでした。

ただし、そういう視点を持ち合わせたとしても、結局、写真は世に出された形だけが評価の対象となってしまうのです。モデルの意思まで込みで、写真を評価するということは行われにくいと考えます。

だから、撮ったもの勝ち、主導権は写真家にあることになります。

とはいえ、「写真のためなら、モデルの気持ちはぞんざいに扱われてもいい」という考えは誤りだといえます。写真という芸術活動と、モデルの気持ちとの間には、優劣はつけられないものだからです。

そのようなモデルの立場をどうすれば守ることができるのか。契約で取り決めをするというのも一つの考えだと思います。契約によらずに何かできることはないのか。考えてみたいと思います。

2018/04/07

誰も見向きもしなくなったハクサイ 青果の値段あれこれ

Yahoo!ニュースで見たけれど、白菜の値段が急激に安くなったらしいです。1週間で半額になったと聞くと、すさまじい。

今年の冬は、わが家では、白菜を5回も食べたかしら。指折り数えても、片手にもならないくらいだと思います。

1玉800円くらいしていた記憶が。白菜を食べなかった人が多いのではないでしょうか。そして、白菜を食べなくてもどうにか冬を乗り切れると感じてしまった人も多いかも。

もともと白菜の出荷量は、数十年前に比べると60パーセント以下になっているようです。(データ参照元)

さらに出荷量が落ち込むことになるのかどうか、今後が気になります。

このサイトを見て分かったことは、今のサクランボの値段がものすごい高いということ。いちごの9倍の値段だというから驚きです。

むしろ、今の時期からサクランボが出回っていることを知りました。ニュースによると、先週あたりに山梨でも初めての収穫を迎えたそうです。

2018/04/06

救助のために女性が土俵に上がった話題が興味深い

応急措置のさなか、場内アナウンスを担当していた行司が「女性は土俵から降りてください」と複数回アナウンスを行ったことが、非難を浴びました。

その非難に対して、日本相撲協会は、率直に非を認めて、謝罪をしました。

社会の常識にそった、適切な対応だと思います。

「女性は土俵には上がってはならない」というルールがあります。ルールブックみたいに文章として書かれているわけではないのでしょう。

いわゆる暗黙のルールです。ただ、文章になっていてもいなくても、ルールであることに変わりはありません。そのルールがどのような内容を指すのか、解釈をし、実際の場面にあてはめる必要があります。

例外をまったく認めないルールなのか、例外を認めるのか。

ルールをどのようにあてはめるか、そのことまで決まっているのであれば、現場としても楽なのですが。

決まっていないのであれば、実際そこにいる担当者が、まずルールを解釈することになります。

女性が救護をするために土俵に上がるなどという場面は、ほとんどないのでしょう。ですから、担当者が「この女人禁制のルールは例外を認めないものだ」と考えて、その通りに説明したことはやむを得ないといえます。

いずれにしろ、今回の事件で、女人禁制ルールは例外も認められるゆるやかなものだ、ということが明らかになったわけです。その意味で、興味深いできごとです。